自分のためにあるお墓参り

~お墓は亡くなった人に会う目印~

語る人宗教法人 花豊寺《全天候型納骨堂》新琴似 北の杜御廟 統括部長 木村克也氏

快適な生活を過ごすには、心身の健康が大切です。そのためには医療機関のサポートが不可欠ですが、忘れがちになっているのがお墓参りなど、昔から続いている先祖供養の習慣です。心の平安のためにも大切にしたい先祖や亡くなった人とのつながりについて、『北の杜御廟』統括部長・木村克也氏にお聞きしました。

「今年は彼岸の入りが9月19日で、たまたま敬老の日でした。若い方には、お年寄りを大切にして欲しいと思います。そして、敬老の日が重なった今年は、改めて今お元気なお年寄りだけじゃなく、亡くなった人たちを思い出し、生前の労を労うことも大事なことだと思って欲しかった」と木村統括部長は話します。

◆お墓参りと追善供養

多くの人は、お彼岸にお墓参りをします。では、何のためにお墓参りをするのでしょうか。よく言われるのは、先祖のための供養です。供養は正式には追善供養といい、自分が善行を積み、積んだ功徳を先祖に届けるということですが、果たしてそれだけでしょうか。
「お釈迦様が、悟りをひらくために歩んだ道を仏道といいます。人間誰しも幸せを望むのは当たり前。でも、自分が幸せになりたいなら、周りの人たちに自分が良い行いをする。それが広がって、周りが良くなれば自分も良くなる。そういう生き方をしましょうという教えです」とする木村統括部長は、もともと日本人には仏教を受けいれやすい素地があったと次の様に話します。

「日本では縄文時代から、畑を耕して作物を食べる生活が広まりました。人がたくさんいれば作業量は増え、収穫も多くなります。働き手は大勢いた方が良いので、互いに周りの人を思い、病人を看病しました。病人を看病する事も仏の道で、お釈迦様の弟子は看病出来なければならなかったくらいです。お年寄りを大事にする、病人を看病する、みんなが協力して生きていく。みんなは自分のため、自分はみんなのためという考え方でしたから、インドから中国に渡って、日本に仏教が伝わってきた時、日本人は、ものすごく受け入れやすかったのです」

◆周りの人を思いやる日本人のDNA

木村統括部長は、周りの人を思いやる日本人の心は、今も続いていると、東日本大震災の際の人々の行動を例に話します。「3・11の大震災でも暴動などは起きませんでした。東京で帰宅難民が大勢出た時も人々は整然と歩いて帰宅しました。また、水や食料が大変だろうと、コンビニや商店が自主的に水を配ったり、休憩所をつくりました。他人が困っている時には助ける行動を見て外国の人は驚きますが、縄文時代からの助け合って生きるというDNAが、今の日本人の中に残っているのではないかといわれています」

本来お墓参りというのは、自分や子供たちが良くなるために、お墓で先祖の考えを吸収しようという気持ちの表れとも言う木村統括部長は、「自分の良い行いが、先祖のためになる。と同時に先祖から教えをもらって、それが巡り巡って自分に還ってくる。その行いが子供たちのためにもなる。つまり、供養は自分のためなのです。お彼岸などにお参りに行くのは、自分のためだから当たり前のことです」と、お墓参りが先祖供養のためだけでなく、自分のためのことと説明します。

◆墓じまいは子供たちのため?

お墓参りに限らずお墓に関しては、いろいろなことに囚われて悩むケースは多いものです。例えば、お墓を解体、撤去してしまう墓じまいもそのひとつです。自分の代で墓じまいして子供や孫たちに負担をかけないようにしたいという気持ちの半面、それが本当に正しいことなのかという悩みもあります。

「先祖はお墓には入っていません。お盆には、ご先祖様が帰って来るから、家で迎えます。つまり、ご先祖さまはずっと墓に入っているわけではないのです。では、お墓とは何かというと、僕はお墓というのは亡くなった人と今生きている人が待ち合わせする場所であり、その目印と思っています。それも子孫のためだけの目印ではありません。亡くなった人には、つながりがたくさんあって、子孫が知らないつながりもあります。そうしたつながりのある人たちが、亡くなった人に会いに行こうと思った時の目印がお墓です」と話す木村統括部長は、「そうしたことからも墓じまいが子供たちへの優しさでは決してないと僕は思います」との言葉で結びました。

(取材日:平成28年9月20日)


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